作品が概念だけでなくポータブルな「物体」になる場合、展示空間との密着点をどうするか。私はいつも設置現場で動揺してきた。 既にある建造物に居抜き的に「作品」を置くこととは、作品を展示空間の床や壁の素材に対応(迎合)させることで、作品のどこかに接触部分として、作品本体とは別の脈絡から発生した加工を受け入れることである。 加工された箇所は作品の外部になり「考えてはいけない部分・見えても見ないで欲しい部分・あっても無かったことにして欲しい部分」になる。
私は今回、その空間との密着部分を後付けでなく、あらかじめ前提として主軸に組込んだ作品をつくる。ここ数年はベニヤ板でパネルを作り、本来は鑑賞する部分ではない裏側の骨組みの、他にあり得るであろう無数のパターンを増やし続けてきた。表向きは同じ四角の面だが合板自体の個々の文様があり厳密には同じ表面ではない。そして裏側には虫食い葉のように個々の時間・境遇があり、それを私が無駄に創り得る領域があることを示したかった。今回はこのパネルに何カ所もアンカーを打ち込み、作品最前面に別の面を被せることができる固定機能を付け、上部のレイヤーが背景に後退する可能性をデフォルトで備える。またアンカーで貫かれることによって表側と裏側と展示空間が臍の緒のように繋がり、側面以外の新しい中間エリアができる。その繋がる仕組みを機能させたりさせなかったりしつつ、アンカーそのものが文様化する顛末もみたい。これらのパネルは入れ子構造として展示空間に埋め込まれたアンカーで固定される。
巧くいえないのだが、「こっちにあるよ…いや、実はこっちじゃないや、あっちにあるよ…そうじゃなくてこっちだよ…」といった具合に矢印の示す方向を何段階も切り替えて屈折する密度を上げたい。答えに辿りついたと思ったら、その瞬間にその「問い」自体の解釈が無効になったり変わったり薄ぼんやりするような仕掛けをつくってみたい。私が認識している世界に近い状態を自分で構成したい。そうして主従関係を反転し克復感を得られるかどうか知りたい。 (2015.3.7)
『資本空間 –スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸』 vol.1 豊嶋康子_展覧会ハンドアウト用テキスト)
(2015)
「実体的要素」を変数として用い、ひとの思考の仕組みの解釈法/補正法/調律法を探し、それらの「捏造」法に向かい合えるように試みる。
第三回府中市ビエンナーレ図録 statement P.28
(2006)
作品「制作」とは漠然とした他者に対する無自覚な抵抗である。ただ生きているうえで無意識にあらわれる反射に過ぎない。つまり特定の相手を前提としないニュートラルな「復讐」である。自分で把握しきれない量の事象の相関関係によって織り上げられた『私』を、自分の意思で作り直さなければならないと何かに追い立てられている。たとえば相撲の「ぶつかり稽古」のように、限界まで押すことと受け身つまり転び方を、繰り返すことによって、自分の要素のなかに埋め込まれている(と無意識のうちに何故か前提としている)あらゆる事象と自分との「韻」を覚醒させるために「私の考え」にぶつかりながら転がされ、そして怪我をしない跳ね返され方、受け身を体得したい。これが広義の「システム」を垣間見ることであり、それを鍵として、いま経験しているこの世界の無数に在るであろう別の相を開きたい。
(20180728)
まず「表現」が先行することによって、表現されざる「大いなるもの」があとから相対的に仮構されるのだろうか。又は、大いなる「全体」にはあらかじめ表現となるある種の胚が偏在し、それが人を媒介として外在化するのだろうか。仮に正確な「表現」に到達した場合、それは「全体」に包括される事態を示すのだろうか。そうではなくて「全体」と酷似した別の領域を発生させる事になるのだろうか。或いは、総ての「表現」に相応した各々の「全体」が集約されずに幾重にも無限に発生し続けるその場の方向性を予感したことを意味するのだろうか。
ART TODAY 1997 OPERA APERTA 図録 p.41(1997)
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